2012年01月27日
人生のダブルヘッダー
今、「私の人生は終わった」と思っていませんか?
今から2試合目が始まりますよ♪
ーーーーーーーーーー
私の目が見えなくなったのは二十七歳のときだった。
激しい痛みをともなって、徐々に視界がぼやけていった。
視力の低下が著しく入院を余儀なくされたときには、
とうとう「べーチェットさん」にかなわなくなったのかと思って、
悔しくて悔しくて仕方がなかった。
厚生省指定の難病の一つである
べーチェット病だと診断されたのは、
高校三年生のときだった。
体育の時間にクラス全員で列を組んで
マラソンをしていたときのことである。
突然、足に劇痛が走った。
こらえきれずに転倒した。
足の腫れがひかずに
病院でいろいろな検査を受けていくうちに、
ベーチェット病だと診断された。
病名がわかっても、どんな障害が出てくるかということは、
その時点ではまだわかっていなかった。
体に宿ってしまった病と仲良くしようと、
私は「ベーチェットさん」と名づけて、
なだめすかして十年あまりを平和に過ごしてきた。
新潟から東京に出てきて、建築会社でOLをしていた。
この平凡な生活が、ずっと続くのではないかと思っていた。
いや、そう願い続けることで、
病気を克服できると信じていたかった。
ところが、「ベーチェットさん」はそんなに優しくなかった。
目の痛み、全身を襲う倦怠感、増していく内服薬、
注射、度重なる手術……。
難題を押しつけるだけ押しつけておいて、
一向によくなる気配は見えない。
それどころか、ますます窮地に追い詰めていく
あまりの意地の悪さに、ほとほと疲れ果ててしまった。
十か月あまりの入院の末に、退院することになった。
回復したからではない。
濃い乳白色の世界は、もう微動だにしなかった。
心配して、上京してきた母の腕につかまって、
週に一度だけ薬をもらいに病院へ通った。
外界との接触はそれだけだった。
テレビやラジオの音を耳にするのも煩わしくて仕方がなかった。
私にとって見える世界が失われたことは、
世界が失われたことに等しかった。
ただただ、ベッドの上に縮こまって、何も考えたくなかった。
一年六か月の間、私の巣ごもりは続いた。
その間、母が私を守る防波堤になってくれた。
「がんばりなさい」とか
「そろそろ再起をはかったら」
などといったことは一言も言わなかった。
「いった豆でない限り、かならず芽が出るときがくるんだから」。
母が繰り返し言ったのはその一言だけだった。
そんな生きているのか、死んでいるのかわからないような
私の魂を呼び戻すきっかけとなったのは、
大宅壮一さんがお書きになった『婦人公論』の一文だった。
「野球の試合にダブルヘッダーがあるように、
人生にもダブルヘッダーはある。
最初の試合で負けたからといって、
悲観することはない。
一回戦に素晴らしい試合をすることができたのならば、
その試合が素晴らしかった分だけ、
惨敗して悔しい思いをしたならば、
悔しかった分だけ二回戦にかければいい。
その二回戦は、
それまでにどれだけウォーミングアップをしてきたかによって
勝敗が決まってくる」
私の二回戦はこれから始まるのだと思った。
一回戦とは違って、目の見えない私で戦わなければいけない。
だが、一年半というもの、
二回戦を戦う準備をさせてもらった。
もうウォーミングアップは十分だと思った。
いてもたってもいられない気持ちで
東京都の福祉局に電話をかけ、
戸山町にある心身障害者福祉センターを紹介してもらった。
目が見えなくなって、何から始めたらいいのかわからない
私にとって、まず最初に必要なのは
一人で歩けるようになることと、
点字を読めるようになることだった。
やっと外界と接触する心の準備のできた私を後押しするように、
電話で相談にのってくださった先生がおっしゃった。
「あなたは運のいい人ですね。
ちょうど視覚障害者向けのカリキュラムに
あきが出たところなのですよ。
明日いらしてください。
明日来られなければ、
他の人に順番をまわしてしまいますからね」
舞い込んできた幸先のよさに喜び勇んで、
新しい人生を出発することになった。
そんな私の二回戦の試合模様が、
先に『ベルナのしっぽ』という一冊の本にまとまった。
結婚して、子供を産み、
盲導犬とともに暮らす奮闘ぶりが描かれている。
大竹しのぶさん主演のドラマとして、
フジテレビでも取り上げていただいた。
こうして、あの空白の一年半から立ち直ってみて思うのは、
生きる勇気を失わない限り、私たちは
たいていの困難を乗り越えていくことができる
ということである。
不幸のどん底にいるときには、
どこまでも奈落の底に落ちていくのではないかと思えてくる。
だが、それをこらえてじっと痛みを耐えていれば、
かならず明るい光は見えてくる。
その一つひとつの困難を乗り越えていくことが
生きるということなのではないかと思う。
そして、一試合目がうまくいかなくても、
人生にはときに二試合目が巡ってくる。
そのためのウォーミングアップを続けていくことこそが、
次の一歩を踏み出すためにもっとも大切なことなのだと思う。
(月刊致知1998年7月号「致知随想」より、郡司ななえさん:鍼灸士の投稿)
メルマガ【輝く未来ビト】より
登録は空メールで
00576250s@merumo.ne.jp
今から2試合目が始まりますよ♪
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私の目が見えなくなったのは二十七歳のときだった。
激しい痛みをともなって、徐々に視界がぼやけていった。
視力の低下が著しく入院を余儀なくされたときには、
とうとう「べーチェットさん」にかなわなくなったのかと思って、
悔しくて悔しくて仕方がなかった。
厚生省指定の難病の一つである
べーチェット病だと診断されたのは、
高校三年生のときだった。
体育の時間にクラス全員で列を組んで
マラソンをしていたときのことである。
突然、足に劇痛が走った。
こらえきれずに転倒した。
足の腫れがひかずに
病院でいろいろな検査を受けていくうちに、
ベーチェット病だと診断された。
病名がわかっても、どんな障害が出てくるかということは、
その時点ではまだわかっていなかった。
体に宿ってしまった病と仲良くしようと、
私は「ベーチェットさん」と名づけて、
なだめすかして十年あまりを平和に過ごしてきた。
新潟から東京に出てきて、建築会社でOLをしていた。
この平凡な生活が、ずっと続くのではないかと思っていた。
いや、そう願い続けることで、
病気を克服できると信じていたかった。
ところが、「ベーチェットさん」はそんなに優しくなかった。
目の痛み、全身を襲う倦怠感、増していく内服薬、
注射、度重なる手術……。
難題を押しつけるだけ押しつけておいて、
一向によくなる気配は見えない。
それどころか、ますます窮地に追い詰めていく
あまりの意地の悪さに、ほとほと疲れ果ててしまった。
十か月あまりの入院の末に、退院することになった。
回復したからではない。
濃い乳白色の世界は、もう微動だにしなかった。
心配して、上京してきた母の腕につかまって、
週に一度だけ薬をもらいに病院へ通った。
外界との接触はそれだけだった。
テレビやラジオの音を耳にするのも煩わしくて仕方がなかった。
私にとって見える世界が失われたことは、
世界が失われたことに等しかった。
ただただ、ベッドの上に縮こまって、何も考えたくなかった。
一年六か月の間、私の巣ごもりは続いた。
その間、母が私を守る防波堤になってくれた。
「がんばりなさい」とか
「そろそろ再起をはかったら」
などといったことは一言も言わなかった。
「いった豆でない限り、かならず芽が出るときがくるんだから」。
母が繰り返し言ったのはその一言だけだった。
そんな生きているのか、死んでいるのかわからないような
私の魂を呼び戻すきっかけとなったのは、
大宅壮一さんがお書きになった『婦人公論』の一文だった。
「野球の試合にダブルヘッダーがあるように、
人生にもダブルヘッダーはある。
最初の試合で負けたからといって、
悲観することはない。
一回戦に素晴らしい試合をすることができたのならば、
その試合が素晴らしかった分だけ、
惨敗して悔しい思いをしたならば、
悔しかった分だけ二回戦にかければいい。
その二回戦は、
それまでにどれだけウォーミングアップをしてきたかによって
勝敗が決まってくる」
私の二回戦はこれから始まるのだと思った。
一回戦とは違って、目の見えない私で戦わなければいけない。
だが、一年半というもの、
二回戦を戦う準備をさせてもらった。
もうウォーミングアップは十分だと思った。
いてもたってもいられない気持ちで
東京都の福祉局に電話をかけ、
戸山町にある心身障害者福祉センターを紹介してもらった。
目が見えなくなって、何から始めたらいいのかわからない
私にとって、まず最初に必要なのは
一人で歩けるようになることと、
点字を読めるようになることだった。
やっと外界と接触する心の準備のできた私を後押しするように、
電話で相談にのってくださった先生がおっしゃった。
「あなたは運のいい人ですね。
ちょうど視覚障害者向けのカリキュラムに
あきが出たところなのですよ。
明日いらしてください。
明日来られなければ、
他の人に順番をまわしてしまいますからね」
舞い込んできた幸先のよさに喜び勇んで、
新しい人生を出発することになった。
そんな私の二回戦の試合模様が、
先に『ベルナのしっぽ』という一冊の本にまとまった。
結婚して、子供を産み、
盲導犬とともに暮らす奮闘ぶりが描かれている。
大竹しのぶさん主演のドラマとして、
フジテレビでも取り上げていただいた。
こうして、あの空白の一年半から立ち直ってみて思うのは、
生きる勇気を失わない限り、私たちは
たいていの困難を乗り越えていくことができる
ということである。
不幸のどん底にいるときには、
どこまでも奈落の底に落ちていくのではないかと思えてくる。
だが、それをこらえてじっと痛みを耐えていれば、
かならず明るい光は見えてくる。
その一つひとつの困難を乗り越えていくことが
生きるということなのではないかと思う。
そして、一試合目がうまくいかなくても、
人生にはときに二試合目が巡ってくる。
そのためのウォーミングアップを続けていくことこそが、
次の一歩を踏み出すためにもっとも大切なことなのだと思う。
(月刊致知1998年7月号「致知随想」より、郡司ななえさん:鍼灸士の投稿)
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Posted by 毎日コツコツ(霜鳥) at 21:22│Comments(0)
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