2014年08月06日
『立ち会い出産』
『立ち会い出産』
高知県 山田高等学校二年 小松さ佑み
八年前のある日のことを私は今でも鮮明に覚えている。
忘れられない理由がある。
姉と、私は一才違いの年子。
けれども学年は二つ違いになる。
物心ついたときにはどちらが母のそばで寝るかケンカ。
食べ物を取り合ってケンカ。
そんな私たちに、母は良くお揃いの服を着せてくれたり、
手作りの洋服を着せてくれたりしたことを、覚えている。
私が八歳のとき、家族が増えることになり、母のお腹は、どんどん大きくなっていった。
それでも母は、
「働かんと、元気な赤ちゃんが生まれんきねぇ」
と、看護師の仕事を続けていた。
時々、私たちの手をお腹に当ててくれて、赤ちゃんが蹴ったり、動いたりするのを触らせてくれた。
そして、折りに触れて、姉や私が生まれた時の話をしてくれたのを覚えている。
「母親ってね、お腹の中に赤ちゃんがいるときは、逢うのが待ち遠しくてね。
出産はものすごい大変なことだけど、赤ちゃんが無事に生まれてきて、
元気に泣いて、お乳を吸ってくれた瞬間、その痛みなんて忘れて、
また生んでもいいなぁって思うものよ。」
「生まれてきてくれる。
それだけで子どもは愛しいものよ。
それだけで母親は幸せになれるものよ」
と、よく話してくれた。
最近、テレビや新聞では虐待のニュースが絶えない。
子どもが泣き止まないから布団を被せた。
面倒だから食事を与えない。
言うことを聞かないから熱湯をかけた。
しつけだと言って、タバコの火を押し付ける。
そんなニュースを耳にする度に、
「ポットのお湯が一滴飛んできても熱いのに・・・。
大人の勝手な行動で、なんてこと!」
「子どもにとっては泣くことが大事な仕事なのに・・・。」
「自分のお腹を痛めて産んだ子なのに、大人がくるってる。
私にお金がたくさんあって、力があったらそんな子どもたちの側にいたい」
と、母は決まって泣きながら言うのだ。
また、私たちは幼い頃、祖母が入院している先へよく通った。
ベット上で生活の世話をしている母の姿。
爪を切ったり、目ヤニを抜いたり、口の周りの汚れをそっと拭き取ったり。
「どんなになっても家族やきね。
親や子どものためにやりすぎることはないねぇ」
と、つぶやく。
たった数分のために通ってお世話をする。
お正月や夏休みには車椅子にのせて連れて帰り、
お風呂にいれたり、一緒に食事をしたりしていた。
今考えると、嫁ぎ先へ連れてきて、私たちと共に触れさせてくれていたのだ。
父は、
「力がいるときはオレがする」
と静かに話していた。
私にとっては、当たり前にある時間だった。
そんな当たり前の幸せに溢れている中で、家族が増えることに対し、
「生まれる時は、私も一緒に立ち会う」
と私は母に言い続けていた。
最初は母も、私が気まぐれに言っているのだろう、と
たいして気に留めていないようで、
「学校の時間じゃなかったらねぇ」
と、あっさりしたものだった。
けれども姉も私も気持ちは一緒で、
しつこく言い続けていたので、そうしようということになった。
陣痛が長く、結局学校を休んだ。
私たち二人は、あっさり生まれたと聞かされていたので、
痛みと格闘している母の姿には正直驚いたし、心配もした。
苦しそうだったけれども、じっと我慢していた。
家族みんなで分娩室に入り、命が生まれる瞬間を共にした。
赤ちゃんが、がんばる。
母も頑張る。
当り前のことだが、生まれたての赤ん坊は服なんか着ていない。
血と体指にまみれていた。
元気いっぱいでうぶ声を上げた。
男の子だ。
命が生まれた瞬間だった。
あれから八年。
弟は今、あの時の私と同じ年になった。
弟が生まれた日、あの日の事が蘇ってくる。
誕生日とは、本当は両親に感謝する日なのだ。
八年前から私はそう思う。
三年前には祖母は別の世界へ逝ってしまった。
その時も母は、
「ありがとう」
と言って送った。
祖母はとても幸せだったと思う。
この先、いつか私も母になる日が来るだろう。
「命」という輝く言葉を、家族が教えてくれた。
それは、色々な形で私のまわりに溢れている。
人は、悲しくても、苦しくても、淋しくても、
楽しくても、嬉しくても、愛おしくても、涙は出る。
その涙の分、幸せはやってくる。
生と死、私はそれを大切にしたい。
平成20年の「第22回 感動作文コンクール」の高校の部・最優秀賞の作文
いまは、兄妹も少なく
核家族で
人が生まれる
そんな事を身近で感じることが少なくなっている
その結果
命が生まれることの神秘さ
命の尊さ
そんな事を感じることが出来なくなっているのかもしれませんね
Posted by 毎日コツコツ(霜鳥) at 23:20│Comments(0)
│今思った事 考えた事