2014年05月23日
孫正義
少年の家は、旧国鉄の線路脇のあった。
戦前から鉄道作業員として集められた朝鮮の人たちが、勝手にバラック小屋を建てて住みついていたのだ。
だから、少年の家の住所は無番地だった。
幼少の頃、親は養豚業をやっていた。
豚のエサにする残飯を民家を回って集めるリヤカーに自分が乗っていたことを今でも鮮明に覚えている。
小学校に入ると、成績の良さが群を抜いていた。
不思議そうに我が子を見つめながら、「ひょっとするとお前は天才じゃないか」と父親が良く言っていた。
また、「お前は大物になるぞ」とか、「お前は日本一になるぞ」と良く言われて育った。
少年も、「ひょっとしたら俺は天才かもしれん」と思い込むようになった。
運命の歯車が大きく動き始めたのは高校1年の夏休みだった。
アメリカに1ヶ月間、語学留学したのだ。
帰国後、「高校を中退してアメリカに留学したい」と言い出した。
両親や先生は「高校を卒業してからにしろ!」と猛反対したが、「人生は短い。今行動しないと後悔する」と押し切った。
内心、「在日韓国人が日本社会で成功するのは難しい。アメリカで成功すれば日本で評価される」と思っていた。
アメリカの4年生高校の2学年に編入できた。
新学期が始まって1週間後、校長室を訪ねた。
「同学年のレベルが低い。3年生にしてください」 と頼んだ。
校長判断で3年生になれた彼は、食事中も、トイレでも、歩いている時でさえも、教科書を話さず猛勉強した。
その様子を見ていた校長は、3年生に進級した5日後、4年生になる特例を認めた。
彼はこのチャンスを見逃さなかった。
その3週間後に大学入学のための検定試験に挑戦したのだ。
これに合格すれば、たとえ17歳でも高校卒業の資格が得られ、大学を受験できる。
ハードルはとてつもなく高かった。
数学、物理など6科目すべてで高得点を取らなければならない。
英語で書かれた試験問題すら辞書がないと読めないのに、高得点など無理だと、誰もが思った。
そんな中、合格を信じていた男が一人だけいた。
試験に臨む、本人だった。
孫正義、後のソフトバンク社長、その本人だけが信じていた。
試験当日、問題用紙が配られた。
彼は祈るような気持ちで試験官に辞書の持込と時間の延長を願い出た。
しかし、却下されてしまった。
ところが、彼はすぐ職員室に向かった。
職員室にいる教師たちに、自分には今、語学のハンデがあるので、時間の延長が必要であること。
語学のハンデは1年もすれば無くなること、を必死で訴えた。
同情した1人の教師が教育委員会に電話をしてくれた。
なんと、教育委員会は彼の主張を認めてくれた。
試験は3日間。
他の受験生は午後3時で終了したが、彼が初日を終えたのは深夜11時だった。
2日目もやはり11時を回った。
3日目は午前零時を過ぎた。
彼も疲労困憊だったが、試験官も同様だった。
2週間後、合格通知が届いた。
翌年彼は、大学生になった。
彼のすごさは頭の良さだけではなかった。
日本人女子留学生と恋もした。
3年後に結婚して、親からの仕送りも断った。
彼が選んだのは経済的自立の道はアルバイトではなく、発明だった。
彼は教授の協力を得て、声が出るコンピューターと辞書と液晶ディスプレイを合体させたものを開発し、日本のメーカーに持ちかけた。
その中で、シャープだけが興味を示した。
シャープは孫青年に1億円の契約金を払った。
これが後の、「音声機能付き電子翻訳機」だった。
裸一貫から始め、わずか30年で、巨大なNTTドコモを抜いた。
2014年3月期の連結決算発表で、営業利益が1兆円を超えていた。
人間の可能性には限界がないことを感じた。
考えてみると、我々はみな人間ではないか。
ということは、誰の可能性にも限界はない、ということではないか。
佐藤亜夢さんがこんな川柳を詠んでいる。
「限界のラインを引いたのは私」
みやざき中央新聞より
Posted by 毎日コツコツ(霜鳥) at 14:44│Comments(0)
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