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2012年07月25日

記録は54年8ヶ月6日5時間32分20秒3

オリンピック委員会の粋なはからいの話です

心が温まります(^-^)


「ストックホルム・オリンピック」 


1912年のストックホルム(スウェーデン)・オリンピックは、
日本の選手が初めて参加した大会です。


5回目を数えるが、まだ28ヶ国の参加という小規模です。


日本は陸上選手二人だけの参加ですが、

金栗四三は前年のマラソン予選会で、世界記録を27分も縮める大記録を出し、期待されました。


しかし彼はレース途中32キロ地点で日射病で意識を失って倒れ、

近くの農家で介抱され、目を覚ましたのは、すでに競技も終わった翌日の朝であった。


彼を弁護するならば、日本からスウェーデンへ20日もかけての船と列車の旅で、

さらに、北欧の夜は明るいため、睡眠に支障があった。


ストックホルムでは、米が手に入らず、

さらにマラソンの当日は、金栗を迎えに来るはずの車が来ず、

彼は競技場まで走らなければならなかった。


また当日、40℃という記録的な猛暑で、参加者68人中、およそ半分が途中棄権した。


うち一人は亡くなっている。


彼はその後、日本のマラソン界の発展のために尽力。

耐熱練習・高地トレーニング・箱根駅伝の企画、更には女子体育の奨励などなど、現在のマラソン界に繋がる、
あらゆる試みが金栗四三の発案でなされた。


ゆえに「日本マラソンの父」と呼ばれる。


時は流れて1967年(昭和42年)スウェーデンのオリンピック委員会から、ストックホルム・オリンピック開催55周年を記念する式典に招待を受けました。



実は、彼はレース中意識を失ったため、

棄権の意志がオリンピック委員会に伝わっておらず

「競技中に失踪し行方不明」として扱われていた。


レースの終わりが、ゴールか棄権しかないとするならば、彼はレース中ということになります。


当時の記録を調べていたオリンピック委員会がこれに気付き、彼を記念式典でゴールさせることにしたのです。


彼は快く招待を受け、競技場内に用意されたゴールテープを切った。

記録は54年8ヶ月6日5時間32分20秒3で、これは世界一遅いマラソン記録になりました。


彼はゴール後のスピーチで

「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントしている。


彼がゴールした瞬間、場内のアナウンサーが

「これをもってストックホルムオリンピックの全競技日程を終了しました」との宣言をした。


誰も気に留めないどうでもいいようなことを、

あえて取り上げたオリンピック委員会のユーモアに拍手喝采です。


何ともほほえましく、嬉しくなってしまうような話です。


ネットにあった話

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Posted by 毎日コツコツ(霜鳥) at 12:45│Comments(0)感動話
 
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