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2012年05月01日

あっこのために


今では、野球部員たちにとって、

毎日の習慣になっていることがある。


練習グラウンドの片隅に造られた、

色とりどりの花が咲き誇る、

小さな小さな花壇の前に部員たちが集まり、

野球帽をとって深々と一礼をするのだ。

そして、心の中でこうつぶやく。

「あっこ先輩、見守っていてください」




2007年の夏、佐賀北高校が劇的な勝利で優勝した年、

大分県の楊志館高校野球部もまた、

県大会をノーシードで勝ち上がり、

甲子園初出場でベスト8に入った。

大分県では、「伝説の夏」と盛り上がった年だ。


当時20人いた2年生の同級生の中で、

たった一人だけ、甲子園に行けなかった生徒がいた。

マネジャーの大崎耀子(あきこ)さん。

部員達からは、「あっこ」と慕われ、頼りにされていた。


「趣味は身体を動かすことです!」

高校一年の春、そう自己紹介して、

あっこは野球部に入ってきた。

キャッチボールのフォームが綺麗だった。

「よく笑う子だな」という印象だった。と同級生の佐藤が言う。



佐藤が、福岡遠征の練習試合で無安打に終わり、愚痴をこぼしたとき、

「明日もあるやん。明日打てばいいよ」

そう言ってあっこは励ましてもくれた。

そして翌日の試合で彼は、2本のヒットを打った。


遠征から戻ると、

なぜかあっこは学校を休み始めた。


数日後のミーティングで、

あっこは部員の前で切り出した。


「私、ガンが見つかったんよ。

これから入院する」


上咽頭(じょういんとう)がん。

すでに末期の大きさだった。


数日して始まった大分県大会で、

チームが勝つたびに、

寄せ書きがびっしりと書き込まれたウィニングボールを

部員達は病室のあっこに届けた。


「元気になれよ」というメッセージと、

テレビに映る選手たちのはつらつとしたプレーが、

あっこに生きる力をくれた。


「食べることができなくても生き生きしていた」

そう母親は言った。



甲子園出場を決めた決勝戦では、

スタンドから教師の一人が携帯で

あっこに試合の状況を逐一伝えた。


あっこは、病院の廊下で

携帯に耳を当て、

泣きながら校歌を一緒に口ずさんだという。


チームが甲子園で熱戦を繰り広げている頃、

あっこは、病院で放射線と抗がん剤の治療を続けていた。


甲子園が終わり、秋に退院。

しかし、年明けには転移が見つかる。

また治療を始めると、最後の夏に間に合わなくなる。


「治療はやめる」

あっこはそう両親に告げると、グラウンドに戻った。

最後の夏を、仲間と共に生きることを決断したのだ。



「体調が悪くても、グラウンドに出ると元気が出る」と言っていた。

あっこの書いた最後の練習日誌にはこうつづられていた。

「チームが勝てるなら私はどうなってもいい」


以前よりも色白でやせた顔でも、

明るい笑顔だけは相変わらずだった。


新チームでキャプテンになった佐藤は、

部員に繰り返し、繰り返し、何度も言った。


「絶対にもう一度、甲子園にいこう!

去年いけなかった、あっこを連れて行こう!」

それはいつの間にか、ナインの合言葉になっていった。


あっこにとって初めての夏の大会。

ベンチは、とても熱かった。

まぶしい日差しや土の匂い、選手の声、汗・・・・。

大分県大会初戦を迎える。


甲子園経験者7人を擁する楊志館は苦戦。

7回表で3−8のスコア。

8回にも4点を失い、

コールドで負けた・・・・。


と同時に、あっこの夏も幕を閉じた。


主将の佐藤は、泣きじゃくりながら、ベンチに戻り、

「ごめん、あっこ。甲子園に連れて行けなくて」

そう言って、肩に手を置いた。


「あやまらないで!」

と言おうとしたのに、涙が止まらなくなった。

佐藤のユニホームのすそをつかみ、あっこも泣いた。


願いがかなって、みんなと一緒に迎えられた夏は、

あまりにも短かった。

それでもこう思う。

「一生懸命がんばるみんなの姿が、

きっとこれからも私を支えてくれる」



それから3カ月後、容態が急変。

気道を切開し声も出なくなったあっこは、

画用紙に震える手でこう綴った。


「ありがとう」


08年10月29日。

享年17歳であっこは天国へ行った。



部員達全員の手元には、

あっこからの最後のメッセージ

「ありがとう」が残っている。


翌年の卒業式の日。

卒業証書授与では、

あっこの担任で野球部監督の宮地弘明教諭(37)が

「大崎耀子」とはっきりと名前を読み上げた。

式後、教室で宮地教諭が

「わたしたちは一生、あっこのことを忘れません」

とあっこの母親に証書を手渡した。


「卒業証書をもらえるなんて夢のよう。あっこも喜んでいると思う」

母親はそう涙ながらに話した。


あっこは闘病中、

「クラスの仲間と一緒に卒業したい」

と話していたという。


四十人のクラスメートから

「生前の願いをかなえてあげたい」

「あっこと一緒に卒業したい」

という声が上がり、学校側も特別に卒業証書を用意したのだ。


そして、グラウンドの片隅には、

3年生が「一緒に卒業しよう!」

とあっこのために花壇を作った。


その花壇は、

「AKKO’s GARDEN」

と名付けられている。


水やりと草抜きはマネジャー後藤百愛(ももえ)(2年)の仕事になった。

入部直後、後藤は監督から2冊のノートを手渡された。

あっこが付けていた「野球ノート」だった。


部員たちのコンディションや天候、

練習メニューに至るまで、こと細かに記されていた。

あっこの真剣さがノートから伝わってくる。


「私は本当に役に立っているのかな」

後藤は、不安から何度もやめようと思ったこともある。


そんな時、携帯のカメラで撮った写真をいつも見返す。


あっこの「野球ノート」の言葉を写した言葉が、

そこには写っている。


「チームのみんなの夢は私の夢。

だから何だって犠牲にできるから。

だからがんばろう!」



〜〜〜


NHKで先日、ドラマとして放送された、

「あっこと僕らが生きた夏」

原作は、有村千裕さんの、

『あっこと僕らが生きた夏〜17歳女子マネージャーがナインに託した、命のバトン〜』(アマゾン:http://goo.gl/1zAO0  )


輝く未来ビトより
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Posted by 毎日コツコツ(霜鳥) at 11:39│Comments(0)感動話
 
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